2011年2月5日土曜日

お薦めオンライン小説「緑土なす」

イメージイラスト
 本日は前回に引き続きオンラインBL小説『緑土なす』(18禁)について熱く語ります。
http://novel18.syosetu.com/n7955i/

古典JUNEや文学に表されるような一貫した概念と、ライトな感じのBL両方のいいところをうまくミックスした作品だな~と思います。
BLが大丈夫で18歳以上の方は是非薦められて頂きたいです…。
続きからどうぞ。



あらすじ
辺境の山奥でひとり暮らしていた足弱は、国王陛下の行方不明になっている「兄上探し」の条件に該当し、はじめて王都へのぼった。そこであろうことかあなたはわたしの兄上だといわれ、陛下に宮殿に連れ込まれてしまう。



舞台は中華風の今世王が納める国で、その今世王の一族は、国に緑土をもたらし繁栄させますが、同じ王族同士しか愛することができない、というのが物語の根幹にあります。
そしてその今世王レシェが愛したのが、行方不明になっていた、同じ王族(であるはず)の足弱です。


BLというとJUNE時代より、(登場人物が男しか愛せないゲイというものを除いて)男女の枠を超えた選択肢の中から世界で愛するのはお前ただ独り!のような、愛ゆえに、数多の中のオンリーワン精神の非常に強い傾向のジャンルだと概ね思います。

この作品はまず最初に、王族だから愛した、という縛りが入ります。

足弱は幼い頃から野人に育てられ山で育ち、突然自分の弟だというレシェに溺愛され困惑します。なぜなら自分が王族でレシェイヌの兄であるという証拠は、王族であるレシェイヌが強く愛を感じているということ以外に何もないからです。
足弱は王族といっても父王が気まぐれに手をつけた女官との間の子で王族の血は半分しか流れていない為、王族特有の愛というものは持ち合わせていません。
物語を通して本当に自分が王族なのかと信じ切れない足弱に対して、自分がこんなにも狂おしい程愛しているのだから自分の兄だと信じてほしいと思うレシェは痛々しいほどです。




というのも、今世王のレシェは最後の王族でした。
王族しか愛せない王族として生まれたのに、親兄弟は皆死に、たった独り誰も愛し愛されることなく生きてきて、やっと出会ったのが最後の異母兄の足弱です。
足弱に出会ってからのレシェイヌは輝かんばかり、足弱に拒絶されれば死にも等しい苦しみを味わいます。普通の恋愛のように、失恋して新しい恋を、というわけにはいかないのです。


BLに限らず恋愛小説で攻め(男)が受け(女)を溺愛…という展開は、ものすご~く好みが分かれると思います。
私 は多くの場合溺愛攻めは「何で?」って釈然としないタイプで、それが権力者ともなると「この国大丈夫なの??」って気になってしまいますが、『緑土なす』 はこういう筋が通っている為、引っかかりなく、むしろ血に始まって血に終わるテーマに厚みを与えていてまんまと嵌ってしまいました。
むしろその一つの恋に盲目に身を捧げる様子が、作中でも語られている「愛に生き愛に死ぬ王族」という美しく儚さの伴う憧憬として胸に刺さるのです。




また、もし足弱に王族の血が流れていなければまったく同じ条件でも愛すことありませんでした。
数多の人間の中から足弱を選んで好きになったのではありません。
王族以外愛せず愛すべき王族が一人しかいない、ほかに選択肢のない愛です。
恋愛小説の醍醐味ともいうべき箇所が欠けているのです。


しかし、それがどうしたというのでしょうか。
読者の心によぎる、もし足弱が王族でなければ、他に王族が生きていれば、という仮定など、レシェイヌのひたむきで深く尽きない、それこそ次から次から溢れ出るような胸を抉る愛情を見ていると、まったく意味のないことのように思えてきます。
もしもの話や愛の理由付けをいくらしたところで、レシェイヌが足弱を己の全てを捧げるほど愛しているし、愛し続ける事実に変わりはないのです。




お薦めオンライン小説①として紹介させて頂いた『魔女とコヨーテ』のすばらしい点は、愛の確信の持てなさ・愛を盲目的に信望したいという願望とそれを抑える理性の強調だと思います。
逆にこの『緑土なす』の魅力的な点は、絶対的な愛の確約です。

誰もが永遠の愛を信じたいと思い、でも実際はそんな保証がありません。
王族の血の薄い普通の人間に近い足弱は、レシェイヌの愛を受け入れつつも最後まで、いつかレシェイヌの愛が醒めたらどうしようかな…と考えています。
レシェイヌと読者から見たらそれはあり得ないことのように思われます。

この物語での王族の愛は生きることと同様です。
それこそ、愛の終わりは命が終わる時です。
血族しか愛せない王族の血の縛りが、レシェイヌの兄への尽きない愛の確信を可能にしてくれます。


なので、普通の物語でじっくりと絆を積み重ねていってやっと得られる「この二人は大丈夫」という安心感が、かなりの初期装備として備わっています。

ではこの全161話の物語では一体何を表現しているのかというと、その確約された愛の、その感覚的で具体的な深さだと思います。


実を言うと読み始めた時は、主に足弱視点で、レシェイヌが盲目的に求めてくるのも、まあ血のことがあるから溺愛系BL小説としては当然だよね、くらいにしか思っていませんでした。
しかし中盤辺りでレシェイヌの視点が見えてくる頃になると、溺愛、という漠然とした無個性な愛情が、好きな人の更に好きな部分が増えていくように、だんだん具体的でマニアックな人格を帯びていることがわかってきます。
そこで初めてレシェイヌという人物を身近に感じ、それからはレシェイヌのふとした描写の端々が、喜びでも怒りでも落胆にはじまってさえ、全て足弱への愛しさへ帰結していることを目の当たりにする度、あまりの情の深さに悲しい訳でもないのに涙が出てしまいました。



レシェイヌの思い人である足弱は、彼を育てた老人が名づけたとおり彼は片足が不自由で、しかも老人が死んでからはたまにしか山を降りず書物を読んだりして暮らしていた為、どもりが酷く、ボロボロです。
30代半ばであるけれど性交の経験もなく、老人の教育のみしか知らず、正直で素朴、人を欺くことを知らない程。

美しいレシェはそんな野人のような中年の男をまず血によって愛し、その不具、幼子のような純粋さ、やさしさを愛します。

自分から逃げることのかなわない不自由な足、
自分が何かを強いても、汚い言葉や罵倒を知らす、ただどうして、なんでと泣くしかできない。
それら全てが哀れで健気で愛しい。





この作品が凄いなぁ…と思うところが、この忌憚なさです。
レシェのこの愛、ここだけ抜き出して紹介すると一見暗く歪んだ物語のようですが、このエゴに満ちた歪みさえまっすぐな愛であり、歪に見えるものも愛の側面に過ぎない。
王族しか愛せず、足弱が王族でなかったら愛すことはなかっただろうという事実も、だからどうしたというのか。愛したことには変わりない。
愛の理由付けの無意味さや愛のエゴの肯定、全編を通してそういう一貫した概念を感じました。
エゴに満ちた愛の形を一瞬たりともおどろおどろしいフェティッシュな様相で描かず、川のほとりのような凛とした清々しい空気のように完成させているところなど、本当に美しい…!


こまごました出来事もまた良いのです。
BLとしては回数の割にあえて突飛なバリエーションを持たない閨の描写も、王族が息をするように愛をするのが息づいていますし、共に楽器を演奏するのが楽しかったり、足弱に美しいものに触れさせたり、芸術を息をするように共に楽しんでいるところなども実に風情があります。



BLの萌え的な部分と、文学としてのテーマ、両方がうまく混じり合った物凄く興味深い作品でした。足弱の純粋さなど、いたいけな少年少女相手に感じる感情に近いですよね。それを30過ぎの男に対して持ってくるとか…BLの革新やでぇ…と革命の旗を振りたいくらいです。
ともかく、エンターテイメントな部分だけでなく一貫した概念を描ききっていらっしゃるという点で、BL好き以外の方でも読めば面白いのではないかなぁと思います(萌えの点としても大変すばらしいのでBLに抵抗があるときついですが)。

この設定、この人物像でないと成立し得ない、代換のきかない物語です。
読み返せば読み返すほど味わい深くなるので、是非読んで頂きたいです。

0 件のコメント:

コメントを投稿